映画「君の名は。」感想・考察(ネタバレ注意)
2016年8月30日 映画いつもはmtgのことしか書いていないDNだが、せっかくweb上に自分の意見を際限なく垂れ流せるスペースを作ったのだから140字以上の思いの丈をぶつけたいと思います。
タイトルにもある通り、ネタバレ注意です。そして映画としての「君の名は。」ではなく新海誠監督作品としての「君の名は。」の個人評です。いちファンの感想、オタの考察として受け止めていただけるなら幸いです。
【感想・第一印象と新海作品】
事前情報から公開数日前に
君の名は。は小惑星の流れ星接近を経緯に、他人との意識がいつの間にか入れ替わっているという宇宙的恐怖体験を経た男女の出会いを描くコズミックボーイミーツガールストーリーです。— ほうじ茶@project:Arkham (@kamidana406) 2016年8月26日
というツイートを半分おふざけでしたのですが、おおむねこの通りだった、というのが初見の感想でした。
・彗星接近をきっかけに他人と精神が入れ替わる。しかも夢の中で。夢引きだ!
・巫女の口噛み酒
・時間を超越する象徴たるアーティファクト組紐
・異世界めいた盆地の中心にある聖域、磐座。
・実は入れ替わっていた女の子とその娘が住んでいた町は3年前の隕石で失われていた!?
・《図書館》ロール。
・図書館の犠牲者名簿目録で見つけた女の子の名前。
・不思議なお酒と組紐の力で過去へと戻る。
・磐座に残る先人の壁画。どうやら既存の湖は大昔の隕石によってできたらしい。
等々……。
クトゥい、クトゥいとヘラヘラしながら見てたんですがエンドロール後、喜びとも不安ともつかないどうも言い表せないような気分となり、直後の回のチケットを購入して衝動的に追い観劇しました。初めての経験です。
今までの新海作品の登場人物は現実や境遇に囚われ、その中で葛藤したり足掻いたり、時に諦観しながらそれぞれの結末を迎えていたのに対して、今作の登場人物はとにかく動き回って状況を動かそうとコミカルにまたは必死に走り回る姿がとても印象的でした。そしてそんな姿に心揺さぶられ感情移入してしまう。
確定してしまった運命に立ちむかうというストーリーはやはり好きだ。
雲海、夕日、朝日、星空、雪、桜、自然、俯瞰描写、男女の相聞歌めいたモノローグ、携帯電話、実在する都心の緻密な背景描写、建築物、歩道橋、階段、駅と電車、生活感あふれる食卓……。
新海作品のお約束ガジェットです。
今までの作品でも扱われた品々ですが、今作では特に過去作を意識して配置し特に「秒速5センチメートル」を多段に意識していると思いました。
映画パンフレットの監督インタビューで「秒速5センチメートル」「星を追う子供」は作者の意図が観客にきちんと伝わらなったと、してその点を昇華し、新規の観客が見ても楽しめる普遍的な内容でもあり、今までの作品を見てきたファンも楽しめる出来になったと、監督自身も述べています。
「秒速5センチメートル」を見た人なら今作の結末との近似とそれぞれの対比に気づくと思います。
真逆なんですよね。
現実や答えの無い不安や喪失感を抱える主人公。
雪降る新宿。
歩道橋。
都心の隙間を縫うように咲く桜。
駅と電車。
偶然の出会い。
すれ違う二人、そして……。
設定というかシチュエーションはそのままに結末を真逆に、普遍的なハッピーエンドに着地させたと言えるでしょう。
また二人がすれ違う場所が秒速~では線路でして、振りむこうとした直後に電車が通過し姿は遮られてしまいます。しかし今作は階段、二人がその気になれば自らに意志さえあれば遮るものなく向かい合うことができる場所なのです。その点は前作「言の葉の庭」も同様ですね。あれも最後は階段でした。
特に並行して走る電車の窓越しの再会は、新海監督お得意の「距離」の物語の際たる演出であり、思わずホロリとさせられました。もうその時点で秒速~のセルオマージュを感じていたので劇中での奥寺先輩と同じく「幸せ」を願ってやまない心境でした。
主人公・瀧の声を演じる神木隆之介くんも新海作品のファンを公言しており、今作の演技において秒速5セントメートルを強く意識したと各インタビューで述べています。そういった面からも各所で「秒速イズム」を感じられる理由と言えるでしょう。
【考察・カタワレ時】
前作「言の葉の庭」のヒロインのカメオ出演たる古典教師「ユキちゃん先生」が授業中に話す内容です。
逢魔が時・黄昏時・誰そ彼(タソカレ)時・彼は誰(カワタレ)時
夕刻の時間を意味する古語ですが作中では、舞台となる田舎町独特の方言として「カタワレ時」と膾炙しているという設定です。
まずここで指摘できるのは
「誰そ彼」=あなたは誰=あなたの名は=君の名は
という連想ゲーム。
また、一般的に使われる意味での逢魔が時。魔物や死人と出逢う時間帯。
原作小説では当該シーンで言及されていますが物語終盤、ずれた時間軸の中で瀧と三葉が不思議な力に寄って再開する時間帯もこの逢魔が時。
物語の主軸にこの言葉が置かれているのを感じます。
続いて「片割れ」と普通に読んだ際に生じる意味です。
手もとの辞書にはこうあります。
片割れ:一つのものから分かれたもの。分身。
劇中、この「片割れ」の意味で彗星の片割れが落ちてくると表現されています。
彗星の片割れが隕石となって町を襲う。字義通りの片割れですが象徴的に扱われていたと思えます。
また、宮水神社の御神体へ口噛み酒をお供えするシーンで一葉が言います。
「ここから先は、カクリヨ(中略)此岸に戻るにはあんたたちの一等大切なもんを引き換えにせにゃいかんよ」
これは神の領域から戻るには自分の「分身」を捧げなくてはいけない、という意味です。ここでは口噛み酒が姉妹の分身=片割れとして描かれています。
このカクリヨ、あの世というのが三葉のいる「3年前の糸守町」と考えられます。
三葉を救うため、三葉の分身たる口噛み酒を取り込み「あの世」に向かった瀧は逢魔が時に三葉と再会します。ここのシーンは作中で最もドラマチックで心揺さぶられるシーンなのですが、本質は瀧が三葉へ返した組紐です。
このあたりよく考えるとタイムパラドクスが起きてるのですが、超絶万能解釈「ムスビ」という概念によりそんな些細な問題を超越し、瀧の手にあった三葉の組紐が元の持ち主のところに戻ります。
瀧は3年間持ち続けお守りとして扱っていた組紐を分身として、「あの世」=3年前の三葉に託すことで「この世」=3年後の世界に戻ってくることができました。
またこれはこじつけがすぎるかもしれませんが、瀧に会おうと東京に向かった三葉が3年前の瀧と時間のズレによる不本意な出会いに傷付き、髪を切ります。
古来より髪は神に通じるとして、霊的な存在や自分の「分身」として扱う風習がありました。三葉は図らずして自分の分身を「あの世」に捧げることになっていたのかも……とも考えられます。
これは全てオタクの妄言です。聞いてもいないのに早口でまくしたてるアレです。
こんな垂れ流しを読んで、もう一回でも劇場に足を運ぼうと思う方がいらっしゃいましたら新海作品を一通りおさらいしてからの視聴をおススメいたします。
タイトルにもある通り、ネタバレ注意です。そして映画としての「君の名は。」ではなく新海誠監督作品としての「君の名は。」の個人評です。いちファンの感想、オタの考察として受け止めていただけるなら幸いです。
【感想・第一印象と新海作品】
事前情報から公開数日前に
君の名は。は小惑星の流れ星接近を経緯に、他人との意識がいつの間にか入れ替わっているという宇宙的恐怖体験を経た男女の出会いを描くコズミックボーイミーツガールストーリーです。— ほうじ茶@project:Arkham (@kamidana406) 2016年8月26日
というツイートを半分おふざけでしたのですが、おおむねこの通りだった、というのが初見の感想でした。
・彗星接近をきっかけに他人と精神が入れ替わる。しかも夢の中で。夢引きだ!
・巫女の口噛み酒
・時間を超越する象徴たるアーティファクト組紐
・異世界めいた盆地の中心にある聖域、磐座。
・実は入れ替わっていた女の子とその娘が住んでいた町は3年前の隕石で失われていた!?
・《図書館》ロール。
・図書館の犠牲者名簿目録で見つけた女の子の名前。
・不思議なお酒と組紐の力で過去へと戻る。
・磐座に残る先人の壁画。どうやら既存の湖は大昔の隕石によってできたらしい。
等々……。
クトゥい、クトゥいとヘラヘラしながら見てたんですがエンドロール後、喜びとも不安ともつかないどうも言い表せないような気分となり、直後の回のチケットを購入して衝動的に追い観劇しました。初めての経験です。
今までの新海作品の登場人物は現実や境遇に囚われ、その中で葛藤したり足掻いたり、時に諦観しながらそれぞれの結末を迎えていたのに対して、今作の登場人物はとにかく動き回って状況を動かそうとコミカルにまたは必死に走り回る姿がとても印象的でした。そしてそんな姿に心揺さぶられ感情移入してしまう。
確定してしまった運命に立ちむかうというストーリーはやはり好きだ。
雲海、夕日、朝日、星空、雪、桜、自然、俯瞰描写、男女の相聞歌めいたモノローグ、携帯電話、実在する都心の緻密な背景描写、建築物、歩道橋、階段、駅と電車、生活感あふれる食卓……。
新海作品のお約束ガジェットです。
今までの作品でも扱われた品々ですが、今作では特に過去作を意識して配置し特に「秒速5センチメートル」を多段に意識していると思いました。
映画パンフレットの監督インタビューで「秒速5センチメートル」「星を追う子供」は作者の意図が観客にきちんと伝わらなったと、してその点を昇華し、新規の観客が見ても楽しめる普遍的な内容でもあり、今までの作品を見てきたファンも楽しめる出来になったと、監督自身も述べています。
「秒速5センチメートル」を見た人なら今作の結末との近似とそれぞれの対比に気づくと思います。
真逆なんですよね。
現実や答えの無い不安や喪失感を抱える主人公。
雪降る新宿。
歩道橋。
都心の隙間を縫うように咲く桜。
駅と電車。
偶然の出会い。
すれ違う二人、そして……。
設定というかシチュエーションはそのままに結末を真逆に、普遍的なハッピーエンドに着地させたと言えるでしょう。
また二人がすれ違う場所が秒速~では線路でして、振りむこうとした直後に電車が通過し姿は遮られてしまいます。しかし今作は階段、二人がその気になれば自らに意志さえあれば遮るものなく向かい合うことができる場所なのです。その点は前作「言の葉の庭」も同様ですね。あれも最後は階段でした。
特に並行して走る電車の窓越しの再会は、新海監督お得意の「距離」の物語の際たる演出であり、思わずホロリとさせられました。もうその時点で秒速~のセルオマージュを感じていたので劇中での奥寺先輩と同じく「幸せ」を願ってやまない心境でした。
主人公・瀧の声を演じる神木隆之介くんも新海作品のファンを公言しており、今作の演技において秒速5セントメートルを強く意識したと各インタビューで述べています。そういった面からも各所で「秒速イズム」を感じられる理由と言えるでしょう。
【考察・カタワレ時】
前作「言の葉の庭」のヒロインのカメオ出演たる古典教師「ユキちゃん先生」が授業中に話す内容です。
逢魔が時・黄昏時・誰そ彼(タソカレ)時・彼は誰(カワタレ)時
夕刻の時間を意味する古語ですが作中では、舞台となる田舎町独特の方言として「カタワレ時」と膾炙しているという設定です。
まずここで指摘できるのは
「誰そ彼」=あなたは誰=あなたの名は=君の名は
という連想ゲーム。
また、一般的に使われる意味での逢魔が時。魔物や死人と出逢う時間帯。
原作小説では当該シーンで言及されていますが物語終盤、ずれた時間軸の中で瀧と三葉が不思議な力に寄って再開する時間帯もこの逢魔が時。
物語の主軸にこの言葉が置かれているのを感じます。
続いて「片割れ」と普通に読んだ際に生じる意味です。
手もとの辞書にはこうあります。
片割れ:一つのものから分かれたもの。分身。
劇中、この「片割れ」の意味で彗星の片割れが落ちてくると表現されています。
彗星の片割れが隕石となって町を襲う。字義通りの片割れですが象徴的に扱われていたと思えます。
また、宮水神社の御神体へ口噛み酒をお供えするシーンで一葉が言います。
「ここから先は、カクリヨ(中略)此岸に戻るにはあんたたちの一等大切なもんを引き換えにせにゃいかんよ」
これは神の領域から戻るには自分の「分身」を捧げなくてはいけない、という意味です。ここでは口噛み酒が姉妹の分身=片割れとして描かれています。
このカクリヨ、あの世というのが三葉のいる「3年前の糸守町」と考えられます。
三葉を救うため、三葉の分身たる口噛み酒を取り込み「あの世」に向かった瀧は逢魔が時に三葉と再会します。ここのシーンは作中で最もドラマチックで心揺さぶられるシーンなのですが、本質は瀧が三葉へ返した組紐です。
このあたりよく考えるとタイムパラドクスが起きてるのですが、超絶万能解釈「ムスビ」という概念によりそんな些細な問題を超越し、瀧の手にあった三葉の組紐が元の持ち主のところに戻ります。
瀧は3年間持ち続けお守りとして扱っていた組紐を分身として、「あの世」=3年前の三葉に託すことで「この世」=3年後の世界に戻ってくることができました。
またこれはこじつけがすぎるかもしれませんが、瀧に会おうと東京に向かった三葉が3年前の瀧と時間のズレによる不本意な出会いに傷付き、髪を切ります。
古来より髪は神に通じるとして、霊的な存在や自分の「分身」として扱う風習がありました。三葉は図らずして自分の分身を「あの世」に捧げることになっていたのかも……とも考えられます。
これは全てオタクの妄言です。聞いてもいないのに早口でまくしたてるアレです。
こんな垂れ流しを読んで、もう一回でも劇場に足を運ぼうと思う方がいらっしゃいましたら新海作品を一通りおさらいしてからの視聴をおススメいたします。